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エンジニアとして国内外、会社規模問わずに活躍してきた経験を活かし、オフショア開発案件で世界とつながる(システムアーキテクト・角田武士さん)―前編ー

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※この記事は、GAOGAOの自社メディア「CREATOR HUB」に2020年11月11日 に公開されたインタビュー記事を転載したものです。

前編後編の2回に分けてお届けしています。

世界で活躍するクリエイターに、海外で働く上でのキャリア論を語っていただく本企画『STORY』。ここでは、一歩先を行く先輩クリエイターのグローバルな挑戦を取り上げ、次のキャリアとして、世界で活躍することを目指す日本人クリエイターを、より多く輩出していくことを目的としています。

今回は、日本でフリーランスのシステムアーキテクトとして活躍する、角田さんにお話を伺いました。角田さんはインドネシアでCTOとしてご活躍された後、現在は日本をベースに、オフショア案件を数多く担当されています。

また、大学、大学院では言語学を専攻されていたという、ちょっと変わったご経歴をお持ちで、インドネシア渡航前にはベンチャー企業と大手企業の両方でエンジニア経験をされています。

そんなIT業界で幅広くご活躍されてきた角田さんの海外渡航までの流れ、そして実際に海外で働いたことで感じているポジティヴな側面、ネガティヴな側面などを伺いました。

これから世界に挑戦しようとしているエンジニア、特に、国内外問わず海外案件に携わっていきたいエンジニアの方には、ぜひ参考にしていただきたい内容となっています。

角田武士

東京大学大学院人文社会系研究科修士課程中退後、独立系ベンチャー企業、エキサイト、ミクシィ、GMOインターネットを経て、2018年10月までの5年間、エキサイトのインドネシア現地法人の取締役CTOとしてジャカルタで勤務。2018年11月に帰国後独立し、現在は個人事業主としてオフショア開発プロジェクトのプロジェクト・マネージャー(PM)やテックリードとして活動中。

―インタビューをお受けいただき、ありがとうございます。事前にお送りいただいたプロフィールを拝見したのですが、ご出身が文系なんですね。どのタイミングで、プログラミングやエンジニアリングに興味を持ったのでしょうか?

実は、小学生の頃からプログラミングをやっていました。

父が買ってきてくれたパソコンを使って、音楽を奏でられるプログラミングを作ったのが最初だったと思います。当時は音楽を聴くことが好きで、楽譜を打ち込んだらその通り音楽が流れるようにプログラムしていました。

その後もコンピューターにはずっと興味を持っていたのですが、それと同じくらい興味を持っていたのが、外国語でした。なぜ外国語に興味を持ったのかは覚えていませんが、父が若い頃にブラジルで8年間働いており、その当時の話を聞いていたからかなと思っています。

幼少期から高校生くらいまでは、コンピューターと言語という二つの分野への興味関心の度合いが、交互に高くなったり低くなったりしていました。

中学を卒業すると、大学付属高校に進学したのですが、文理で分けられていませんでした。どちらにも興味を持っていた私にとっては、両方を学べる良い環境だったのかもしれません。大学受験当時は、言語の方が興味関心の度合いが高かったため、文学部へ進学しました。

大学卒業の頃には、言語学分野で研究者になりたいという思いも芽生えていたので、東京大学大学院人文社会系研究科に進学し、言語学を専攻しました。でも、学んでいくうちに自分は研究者には向いてないなと思えてきて、そこから就職することにしました。

―そこでITベンチャーへ入社されるんですよね。どういった経緯だったのでしょうか。

語学系に進むかIT系に進むかを考えた時、IT系の方が友人も多く働いており、給料も高い印象を持っていたので、IT系に決めました。

就職当時の2002年は就職氷河期ではありましたが、採用してくれたITベンチャーは経歴よりも熱意を重視していました。なので、文系出身の私にもチャンスがあると思って応募しました。

小学生からプログラミングを続けてはいましたが、断続的で、就職当時は5年程プログラミングから遠ざかっていました。基礎は分かるけど、当時のトレンドなどは分からない状態だったので、独学しながら実務で学んでいきました。

ここには2年半ほど在籍し、勤怠管理システムの開発を担当しました。データベースの管理などが主な仕事で、開発自体は外注していたので、仕様書を書くなどしていました。この会社では、3年くらいで辞めて新たな挑戦をする人が多かったので、私も3年以内に辞めて新たな挑戦をしようと決めていました。

ベンチャーを経て大手へ。初めて経験した海外案件が、その後の人生を大きく変える

―その後、メディア事業やブロードバンド事業を展開している、エキサイト社に入社するんですよね。どういった業務を担当されたのでしょうか?

名の知れた大手企業で働いてみたいと思っており、2005年に入社しました。当時はWebアプリケーションの開発者として、コードも書くようになりましたね。

ここで、仕事で初めて海外と関わることになります。2社ほど、海外の会社との業務提携案件を担当しました。具体的には、業務提携先のエンジニアとの英語のやり取りを担ったのですが、すごく楽しかったですね。

この経験を経て、2007年か2008年くらいから、海外で働くことを意識し始めました。今思えば、ここで芽生えた海外志向が、キャリアの大きなターニングポイントになりましたね。エキサイトは働きやすい環境だっただけでなく、仕事も面白かったので6年弱くらい在籍しました。

―その後、すぐに海外で働き始めたのでしょうか?

いいえ、その後は海外案件に関われる2社で経験を積みました。

まず1社目が、ミクシィです。ここでは、同社の海外向けサービスの開発に携わりました。しかし、いろいろな事情によりプロジェクト自体が中止されてしまいました。そのため、1年半ほどしか在籍しませんでしたね。

ただ、ここでの出会いは今でも財産になっています。

周りにいたエンジニアがとても優秀だったので、一緒に働く中で学べることが沢山ありました。また、当時一緒に働いていたエンジニアの多くが、同社内外で出世するなど幅広く活躍されています。ここで得た人脈は、何物にも代えがたいと感じています。

その後に入社した2社目は、GMOインターネットです。同社で働いていた友人に紹介してもらい入社しました。

ここでは、CTO直下の部署に所属しました。エンジニアとして、グループ企業内で立ち上げられた新規事業の技術支援を担当していました。

最初は当時流行っていたソーシャルゲームの立ち上げを行い、その後ベトナムで自社向けのオフショア拠点を立ち上げるプロジェクトを担当しました。上司であったCTOと共に、ベトナムに出張ベースで通いながら進めていたのですが、そうするうちに海外に住んで働きたいという思いが強くなっていきました。

出戻り転職でつかんだのは、インドネシア法人でのCTOポスト

―そこから精力的に転職活動をされたのでしょうか。

転職活動と言うほどのことはしていなくて、周りの人たちに海外に住んで働きたい旨を伝えていた程度です。そんな時に声をかけてくれたのが、古巣のエキサイトでした。

インドネシア法人立ち上げのCTOポストを提示していただき、出戻り転職を決意しました。余談にはなりますが、IT企業の海外法人には、私と同じように出戻り転職で活躍されている方も結構いらっしゃるんですよ。

―元いた会社から呼び戻されるとは、それだけ人材価値を高められていたという証拠ですね。インドネシアに渡ってからは、具体的にどういったお仕事をされたのでしょうか?

2013年11月にジャカルタに赴任しました。立ち上げであったため、組織作りとしては0からのスタートでしたね。日本人はCOOとCTOの私の2人で、あとはCEOも含めてインドネシア人4人でした。

インドネシア法人では、現地のパートナー企業から経理や人事、営業などを担当するメンバーが派遣されてきていたほか、オフィスの場所についても、パートナーのグループ会社の一つである携帯電話キャリアのオフィスを一室借り受けて始めました。インドネシア法人には、5年程CTOとして在籍しました。


後編はコチラ!


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